革 ビジネスバッグの開発
粘り強く米国で「T社式」を布教1987年、50歳の時にT社・モーター・マニュファクチャリング・USA副社長となった張は、T社単独で初めて建設する海外生産工場のケンタッキーエ場設立のため渡米した。
日米貿易摩擦が激しい時期で、当時のT田章一郎社長から、日本人は群れるから評判が悪い、君ら出向者はバラバラに住んでくれ、と言われて送り出された。
ケンタッキーの現地は日本の田舎以上に地域社会の結束が固く、はじめはT社が本当に地域の一員になるのか、地元企業を大事にするのか、非常に警戒された。
しかし、若い時に土地買収などで地域とうまくやる方法を経験したことのある張は、学校の運動会の手伝いや楽団の支援など、汗を流すボランティア活動に積極的に参加し、地域に溶けこもうと努めた。
ボランティアの一環として競馬場の切符切りをしたのもこのころである。
ケンタッキーエ場ではOT学校で学んだカンバン方式を現地従業員にも伝授したが、米国人は個人の功績を強く主張し小集団活動には消極的だった。
日本にいる師匠のOTにもたびたび現地の模様を手紙に書いた。
返事はムリをせず粘り強くやれという励ましの内容で、粘り強く説得する張の流儀にかなうものだった。
ある日、接着剤のミスで不良車が80台も発生した。
米国人の責任者を呼んで、「なぜだ、なぜだ」を繰り返した。
再発防止策を聞いて「それで結構です。
じゃあ、今日はご苦労さん」と言うと、その責任者は突然涙を流し始めた。
米国ではライン停止をした人が罰されることが常識だったから、彼は解雇を覚悟していたと言う。
しかしT社の考えは、ラインを止めて原因を探り、非効率をなくすことが目的であることをよく説明し、それで終わりにした。
張は、こうして米国人従業員や地元民との信頼関係を築き、ケンタッキーエ場の立ち上げを成功させた。
T田章一郎らT社首脳の張に対する評価は一気にあがった。
1988年にはT社自動車取締役、T社・モーター・マニュファクチャリング・USA社長となり、出世の糸口をつかんだ。
1994年、7年間の米国勤務の後帰国した張は、常務に昇格し、渉外・広報を担当した。
この時期に発生した日米自動車協議では、米国駐在経験で培った人脈を生かし、社長のT田達郎が病に倒れるなか、O副社長らとともにT社会長で経団連会長のT田章一郎を助け、難局を乗り切った。
96年に専務、98年には副社長となり、99年に62歳で社長となった。
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